ごあいさつのかわりに

実家で何か縫物をしていた時の話です。

大正 生まれの、「年相応」にボーっとしていて、あまり話もしなくなった祖母が、ふと私の手元を見て

「変な針の持ち方しているねえ。そんなじゃ、浴衣なんか縫えないだろう。日が暮れちゃうよぅ。針の持ち方が違うんだよ」と言うのです。

教えてあげるよ、と言うので針を渡すと、しばらくじーっと考えて

「もう忘れちゃったわねぇ。」

そこで、戦後生まれの母に聞きました。

「ごめ~ん、お母さんミシンはできるけど、手縫いはダメなのよ。手縫いはおばあちゃんよ。」

……うーん、ガッカリ。

「そうか、かつてのお母さんたちは、手で浴衣を縫っていたんだ」と当たり前のことを、シミジミ驚きました。

ついひと昔前まで、何でも作っていたのです。

祖母の中に眠っている素晴らしい、でも当たり前の技術は、もう取り出されることも伝わることもないだろう。

「このままでいいのだろうか」と、言いようもない焦りと寂しさを感じました。

それから数年後、結局「針の持ち方」すら教わることもないまま、なすすべもなく、

祖母の肉体とともに、その技術はこの世から失われてしまいました。

コンビニで「新品の雑巾」が売っている時代です。

巾着袋やらレッスンバッグなどの入学式グッズにいたっては、既製品の購入ものみならず、「製作代行」というお商売も成立する時代です。

便利でスマートになりました。

私たちは頭脳とお金だけを使っていれば、肉体の部分は機械や途上国の人にオマカセで、たいていのものは手に入ります。

もう必要ないから。もう機械がやってくれるから。途上国の製品を買った方が安いから。

本当にそうでしょうか。

かつて、祖母のような市井の人が当たり前に持っていた「何でもない技術」が、

今の私の肉体にはありません。

私たち人間にとって、過去の生活にあって失われつつある「手仕事」とは、人間にどんな作用をもたらしていたのか。

それは、これからの世代に受け継ぐ必要のないものなのか。

かつての人たちのようには器用に動かない私の手は、使っていれば動くようになるのか。

実践を通して、楽しみながら、考えていきたいと思っています。

猫柳たみこ

PS

そして数年後、私は「運針」を覚え、オール手縫いで息子のもんぺを作りました。

一本作れば、手はそれなりによく動くようになります。ほんとですよ。

もくじ